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オフィスsaeda 企画・編集・執筆
文学エッセーII
オールド・ジャパンへの愛着
2年続けてオンライン授業を受けていたが、今夏はやっと対面授業を受けることができたが、教室では学友たちと距離を取り、教壇に立つマスク着用の教授の顔はよく分からず、オンラインに慣れてしまったが故の不自由さを感じた。
そんな対面で初めて受講したのは「日米比較文化論」。19世紀末から20世紀にかけて、アメリカと日本がどのような文化的交流を持ったかについてである。
日本の開国はアメリカによる日本遠征から始まるが、ペリーの黒船が浦賀に来航した1853年、アメリカの捕鯨船は世界でも圧倒的な数を占めていた。ペリー提督は日本人に向けて「この来航は大統領の手紙に記されている通り友好的なものだ」と告げ、「日本沿岸で遭難した船員や捕鯨業者のための安全な避難所、石炭不足の蒸気船のための燃料供給所」 (1)つまり日本遠征の一番の目的は、捕鯨船が嵐とに合ったときの補給地を確保したかったのである。
日本の役人たちは動転して両国の言葉と事情を熟知し信用のおける通訳を探した。その候補にジョン万次郎がいた。
簡単に万次郎の紹介をすると、1841年、14歳の少年万次郎は4人の漁師とともに小さな漁船に乗り込んだ。黒潮にはまり、漂流したのち遭難中にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されハワイまで連れていかれる。4人はそこで降りたが万次郎だけはアメリカまで渡り、英語・航海術などの教育を受け、10年後の51年に帰国する。鎖国時代に万次郎が海外で見聞きした知識と経験は、当時の日本が最も必要としていたものであった。
万次郎のことをアメリカに洗脳されたスパイと疑う者もいたが、日本側代表団に同行し横浜でペリーと面会をする。ここで両国の間で贈答品の交換が行われた。ペリー提督が日本に送った品は、ミシン、カメラ、循環線路を走る4分の1に縮小した蒸気機関車など。これらがどんなものか理解していたのは日本で万次郎だけだった。(2)
アメリカ側からの贈答品は実利的なものばかりであるのに対し、日本から贈ったものは急須や陶磁器の花瓶、人形、蒔絵松竹梅の硯箱など装飾的、芸術的なものであった。これらの品の選択については万次郎の意見が加わっていたという。(3) この時から日本の文化も開国したのである。
その後アメリカに日本人が訪問するだけでなく、アメリカから日本に滞在する人々も現れ、日米の文化交流が行われる。アメリカの動物学者エドワード・モースは、1877年東京大学に教師として雇用されていたお雇い外国人である。横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてからすぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見する。モースの大森貝塚の発見は日本の考古学の夜明けとなった。(4)貝塚の土器から陶磁器へと興味を広げていった彼は、3度目の来日でオールド・ジャパンが絶滅に瀕していると感じた。もし日本人が「オールド・ジャパン」を保存するつもりがないのなら誰かがしなければならない。そう考え収集した日本陶磁器約5千点をボストン美術館へ譲渡した。今もボストン美術館には「モースの日本陶磁器コレクション」が収蔵されている。(5)
日本が近代化のために西洋文化に目を向けていた時代、日本の消えゆくものへの愛着を外国人が持っていたことは実に興味深い。
さて万次郎であるが1860年には批准使節団の一員として咸臨丸に乗り込み、1869年には明治政府の命を受け開成学校(現東京大学)の教壇にも立つ。アメリカで学んだ知識や言語を武器に主権国家の中枢に接近していくが、組み込まれそうになると排除され、幕臣としてはあくまで傍流に過ぎなかった。
マスク越しではあったが教授が熱く語られたのは万次郎の後半の生涯である。何度も繰り返されたことでここが重要課題であると理解できた。対面でなければこの熱量は伝わらない。
参考・引用文献
クリストファー・ベンフィ『グレイト・ウェイブ~日本とアメリカの求めたもの』小学館 2007
(1)p.59 (2) p.12 (4) p.91(5) p.98
(3)川澄哲夫『黒船異聞』有隣堂2004 p.119
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